・東京高判平成12年5月23日判時1725号165頁  三島由紀夫書簡事件:控訴審。  控訴棄却。 (仮処分:東京地決平成10年3月31日、第一審:東京地判平成11年10月18日、 上告審:最判平成12年11月9日) ■判決文 第三 当裁判所の判断  当裁判所も、被控訴人らの本訴請求は、原判決が認容した限度で理由があり、その余は 理由がないと判断する。その理由は、次のとおり付加するほか、原判決の事実及び理由 「第三 争点に対する判断」と同じであるから、これを引用する。 (当審における控訴人らの主張に対する判断) 一 不法行為の成否について  控訴人らは、本件書籍に本件各手紙が公表された当時、素人はもとより専門家でも、手 紙の著作物性について確かな見解(司法判断の予測)を持することは不可能であり、手紙 の著作物性は誰にも知られていないに等しく、国民の依拠すべき法は、事実上存在しなか ったから、控訴人らには、故意がないのはもちろん過失もないと主張する。 1 著作権法は、著作物を「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、 美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」と定義し、特に「手紙」を除外していないか ら、右の定義に該当する限り、手紙であっても、著作物であることは明らかである。この 点について、手紙の著作物性は誰にも知られていなかったとか、国民の依拠すべき法が事 実上存在しなかったとか、ということはできない。 2 甲第一七号証によれば、一九七五(昭和五〇)年七月一〇日付け週刊文春(一四一頁) には、交際相手にあてた三島由紀夫の私信が受取人により「週刊朝日」に公開されたこと に関し、「作家の著作権は私信にも及ぶというのが法解釈上の通説だそうで、確かに『手 紙』を公開するには夫人の了解が必要だろう。」、「3月10日に朝日側が著作権侵害を認 めた念書を渡すまで、両者の交渉は延々と続く。」、「著作権者の了解をとらなかっただ けに、どうも朝日側の分が悪かったとみえる。」との記載があることが認められる。週刊 文春が、一流の出版社であることを被控訴人らも認める(当審答弁書四頁五行)控訴人会 社によって発行される一般向け週刊誌であることは当裁判所に顕著であるから、右記載は、 適切な裏付けのもとに書かれたものと推認される。  右認定の事実によれば、昭和五〇年ころには既に、交際相手にあてた私信という程度の 手紙も著作物(すなわち、思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、 美術又は音楽の範囲に属するもの)であること、及び、右のような手紙にも著作者の著作 権が及ぶということが、週刊文春のような一般向け週刊誌にも、「法解釈上の通説」とし て説明される程度の事柄であったことが認められる(ちなみに、当庁第六民事部の書棚の 入門書、実務書等にも、「問17・・・日記や手紙を発表するのは、著作者人格権侵害にな りますか。・・・日記や手紙は、やはり著作物である場合が多いわけですから、著作物で ある以上は、人格権の問題が起こる。原則的には普通の著作物と同じように、公表につい ては著作者の同意がいるということになります。死後であれば遺族の諒解を得なければい けないということになる。・・・もちろん、著作権は手紙を出したほうにある。・・・も らった手紙であるからといって、それを勝手に本にするとかいうことはいけない。複製権 の侵害と、人格権の侵害と、両方ひっかかってくるおそれがあるということですね。」 (佐野文一郎・鈴木敏夫著「新著作権法問答」八〇頁・株式会社新時代社一九七二年一二 月一〇日第二刷発行)、「書簡の内容が、発信人の思想、感情を創作的に表現している場 合は、文書の著作物として著作権が発生する。・・・著作権のある書簡の著作権者は発信 人であり・・・これが発信人以外の者(受信人も含めて)により公表される場合、発信人 の許諾が必要なことはいうまでもない。」(社団法人著作権資料協会編「著作権事典 改 訂版」一六二頁・株式会社出版ニュース社昭和六〇年一〇月二五日発行)、「Qー58 日 記・手記は著作者に無断で公表できますか。書簡の場合はどうですか。 いずれも著作者 に無断で公表できない。創作したものを公表するかしないかは著作者の自由である・・・ 書簡の場合には、受取人は書簡の所有者にすぎず、著作者は発信人であるから、受取人の 了解を得ただけでは発表できないのである。」(播磨良承編「新版Q&A著作権入門」一 四六頁(芹田幸子執筆)・世界思想社一九九一年一〇月一日発行)、「手紙も日記も著作 物。その著作権者の許諾なしに転載できない。・・・なお、手紙や日記の所有者は、著作 者でもなければ著作権者でもない場合が多い。」(清水幸雄編著「著作権実務百科」一ー 九四頁ないし九五頁・学陽書房一九九二年一一月五日発行)、「書簡 時候の挨拶、転居 通知、出欠の問合わせなどの日常の通信文とか、品物の発注、代金の督促など商用文は著 作物とはなりえないが、その他の書簡であって文芸、学術の範囲に属すると認められるも のについては著作物として保護される。この場合・・・特約なきかぎり著作権は差出人に 留保される。したがって名宛人は差出人の同意を得ることなしに書簡を公表することはで きない。」(半田正夫著「著作権法概説」八七ないし八八頁・株式会社一粒社平成九年五 月二〇日第八版第一刷発行)等、手紙の著作物性を説明し、その著作権は著作者(発信人 )にあるとする記述がみられるところである。)。 3 本件各手紙(本件書籍(甲第一二号証)中の掲載頁は、原判決七、八頁に記載された とおりである。)を読めば、これが、単なる時候のあいさつ等の日常の通信文の範囲にと どまるものではなく、三島由紀夫の思想又は感情を創作的に表現した文章であることを認 識することは、通常人にとって容易であることが明らかである。また、控訴人らが本件各 手紙を読むことができたことも明らかである。そうである以上、控訴人らは、本件各手紙 の著作物性を認識することが容易にできたものというべきである。控訴人らに過失がない との主張は、採用することができない。 二 差止めについて 1 著作権法六〇条ただし書きの適用の主張について  控訴人らは、種々の事情をあげて、本件各手紙の公表は三島由紀夫の意を害しないと主 張する。  しかし、控訴人ら主張に係るFの事情を認めることができないのは、前記一及び原判決 の事実及び理由「第三 当裁判所の判断」一2のとおりである。そして、本件各手紙が、 もともと私信であって公表を予期しないで書かれたものであることに照らせば(例えば、 本件手紙Nには、「貴兄が小生から、かういふ警告を受けたといふことは極秘にして下さ い。」との記載がある。右のような記載は、少なくとも書かれた当時は公表を予期しない 私信であるからこそ書かれたことが明らかである。)、控訴人ら主張に係るその余の事情 を考慮しても、本件各手紙の公表が三島由紀夫の意を害しないものと認めることはできな い。 2 頒布の差止めについて知情の主張・立証がないとの主張について  控訴人らは、頒布が禁止されるのが「情を知って」の場合に限られることは、著作権法 一一三条一項二号が明文をもって定めるところであるのに、被控訴人らは、頒布差止め請 求についての「情を知って」という要件を主張していない旨主張する。  しかし、著作権法一一三条一項二号は、著作権侵害行為、著作者人格権侵害の行為や著 作権法六〇条の規定に違反する行為によって作成された物がいったん流通過程に置かれた 後に、それを更に転売・貸与する者を全部権利侵害とすることには問題があるために、そ の場合に限って「情を知って」との要件を付加しているものと解すべきであり、控訴人ら は、本件各手紙を本件書籍に掲載して出版した当の本人であって、物がいったん流通過程 に置かれた後に、それを更に転売・貸与する者ではないから、控訴人らの行為は、同法一 一三条一項二号にいう「頒布」の問題として扱われるべき事柄ではないというべきである。  控訴人らは、本件各手紙を本件書籍に掲載して出版行為をすること自体が許されなかっ たのであるから、右違法な行為によって自らが作成した物を自ら頒布することもまた許さ れないことは、むしろ自明である。すなわち、本件各手紙を本件書籍に掲載して出版した うえで頒布するという控訴人らの一連の行為全体が、全部であれ一部であれ、複製権を侵 害する行為及び著作権法六〇条の規定に違反する行為に該当するというべきである。 3 信義誠実義務違反、権利濫用の主張について。 (一) 甲一二ないし一四、一六、一七、一九、二〇号証及び弁論の全趣旨によれば、三島 由紀夫の遺族は、その了解なしに三島由紀夫の手紙が公表、複製された場合には、そのテ ーマが同性愛であるか否かとは関係なく必ず抗議し、その手紙が掲載された書籍の出版継 続を阻止していること、現在は右遺族の了解の下に出版されている書籍の中にも、出版当 初了解を得ていなかったために抗議を受け、著者及び出版者の謝罪、書籍の残部の断裁等 が行われ、了解が得られるまで一〇年以上の間出版が中止された、という経緯のあるもの があることが認められる。 (二) 本訴が著作権及び著作者人格権に関するものであることに右(一)の事実を総合して 考慮すれば、被控訴人らが本件各手紙の存在を知らなかったこと、本件各手紙は文学作品 として書かれたものではないこと、差止めによる控訴人ら側の損害、控訴人福島が芥川賞 候補にもなった有望な新人作家であること、本件書籍の文学的水準、三島由紀夫という文 学者の正確なイメージを伝えるという目的、その他本件証拠によって認められる一切の事 情を斟酌しても、それゆえに、被控訴人らが、著作権侵害を受忍しなければならないとか 、被控訴人らが同法一一六条一項所定の権利を行使することが許されず、結果的に著作権 法六〇条の規定にもかかわらず控訴人らが三島由紀夫の著作者人格権の侵害となるべき行 為をすることが放置されるとか、と解することはできない。したがって、本訴差止請求を 信義誠実義務違反、権利濫用と認めることはできない。 4 憲法二一条違反の主張について  控訴人らは、本訴差止請求は、同性愛者に対する差別感情に基づき、本来ならば公表を 差し止める意思も必要もない手紙の著作権に名を借りたものであると主張するが、これを 認めるに足りる証拠はない。前記3(一)、(二)の事情、特に、右差止めは、本来、控訴人 らが控訴人ら自身の思想、感情を創作的に表現することを差し止めようとするものではな く、控訴人らが、控訴人ら自身の思想、感情を創作的に表現するのに役立てるためとはい え、他人の思想、感情の創作的表現を複製、公表することを差し止めようとするものにす ぎないものであることに照らせば、本訴差止請求を認めることを憲法二一条に違反するも のということはできない。 三 名誉回復措置について 1 控訴人らは、本件各手紙は、三島由紀夫の名誉や声望を低下させるようなものを一切 含んでいないから、名誉回復措置の請求はできないと主張する。   しかし、著作物の公表権は著作者にあるから、本件各手紙を公表することは、三島由 紀夫が生前、本件各手紙を公表することを了解していたか(私信であっても、事前又は事 後に著作者が公表を了解することは、十分あり得ることである。)、又は、その遺族が公 表を了解した(すなわち、公表に対して、三島由紀夫が存していたとしたならその著作者 人格権となるべきものの保護のための措置を採らないことを約束した)という世人の誤解 を招くものということができる。そして、世人が右のように誤解すれば、これにより三島 由紀夫の社会的名誉声望が低下することは明らかである。すなわち、本件各手紙は、三島 由紀夫の思想又は感情を個性的に表現したものではあるものの、公表を予定しない私信で あることがあずかって、少なくとも控訴人らからは、「氏の文名を貶めこそすれ、高める に資するようなものではない」(原判決四九頁)、「中学生風の言いまわし・・・どこの 言葉か判らぬ単語・・・悪趣味な表現・・・本当に三島氏が書いたのかと、首を傾げざる を得ないことになるのである」(同五二頁)と評価されているものであるから、その文学 的・内容的水準を右と同様に評価したうえ、このような低い水準のものについて三島由紀 夫自身が公表を了解した、あるいは三島由紀夫は肉親である遺族からこのような低い水準 のものでも公表を了解するであろう人物と思われているからこそ遺族が公表を了解したの であろうなどと誤解して、三島由紀夫の文学性や品性に対する評価を下げる者が出ること は、避けられないところであるからである。 2 控訴人らは、原判決別紙広告目録(二)の広告文について、@「私どもがご遺族に無断 で公表、出版したものであります」という部分は、遺族らには公表につき承諾を与える権 原がないから、法の論理に反する、A「これにより、大変ご迷惑をおかけしました」とい う部分は、誰に迷惑をかけたのかが曖昧であり、著作権法一一五条による「適当な措置」 を要求し得ない遺族に対して迷惑をかけたと詫びさせるのは道理に合わないし、故人に対 して詫びさせるのもおかしいと主張する。  しかし、著作権法は、著作権者の遺族は、故意又は過失により、著作者が存していると したならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をした者に対し、同法一一五条の適当 な措置を請求できることとしており(同法一一六条一項、六〇条)、その意味で、遺族が、 著作権者の死後において著作者の人格的利益を保護する権利を有することを認めているの であるから、その権利者である遺族に「無断で公表、出版した」ものであることをも明ら かにすることが、三島由紀夫の名誉声望を回復するために適当な措置の一つとなることは、 明らかというべきである。このことは、前記1において説示したとおり、本件各手紙の公 表について、遺族が了解したと誤解されるおそれがあることからも明らかである。控訴人 らが、遺族が同法一一五条の適当な措置を請求できないことを前提として右主張をするも のとすれば、それは失当である。  また、「これにより、大変ご迷惑をおかけしました。」との部分は、控訴人らが、本件 書籍の出版により、三島由紀夫又はその遺族が本件各手紙の公表に了解を与えたものと、 広告文の読者に誤解を与えたことを、読者にとっての迷惑ととらえ、これについて謝罪し たものと優に理解することができ、新聞掲載の広告文の一部であることを前提にすれば、 これが最も自然な理解というべきである。この点についての控訴人らの主張も採用できな い。  以上のように解して原判決主文第四項のとおり広告の掲載を命じたとしても、憲法に違 反するものではない。 3 控訴人らは、原判決が、広告文の掲載を命じることを必要とするものとした事情@な いしD(二三頁ないし二五頁)について、名誉声望とは何の関係もない事項であると主張 する。  しかし、右@ないしDが、三島由紀夫の名誉回復のための適当な措置として、広告文の 掲載を命じるか否かの判断に当たって重要な要素であることは明らかである。例えば、@ 及びBは、本件各手紙が多数の者に公表されたために名誉声望の低下が大きいことを裏付 ける事実、Aは、本件各手紙の公表権侵害について、「被控訴人らが三島由紀夫の人格的 利益を低く見て事実上保護していなかったためであり、被控訴人ら(ひいては三島由紀夫) の自業自得である」というような事情がないことを示す事実、Cは、将来の公表の可能性 を念頭に置いていた場合(例えば、著名作家への手紙については、将来往復書簡集として 刊行される可能性を考える場合もある。)には、表現にも注意することは当然であるから、 それでもなお本件各手紙の程度のものを書いたとすれば、多少の文名の低下はやむを得な いというべき場合もあり得るが、本件はそのような場合ではないことを示す事実、Dは、 控訴人らが既に三島由紀夫の社会的な名誉声望を回復するための適切な措置を採っていれ ば、その内容によっては、広告文が必要なくなったり、あるいは、掲載場所や大きさが小 さくてすんだりする場合もあるが、本件はそのような場合ではないことを示す事実であり、 これらの事情を考慮することは当然である。   控訴人らの主張は、採用することができない。 四 損害賠償について  控訴人らは、何人かの文学評論家が控訴人福島の文学を評価し、本件各手紙の本件書籍 における重要性に言及していないことを根拠として、損害賠償についての原判決の判断を 非難する。  しかし、著作権侵害による損害賠償は、文学的価値ではなく財産的価値の侵害による賠 償であって、三島由紀夫と控訴人福島の知名度や文学者としての名声を比較すれば、本件 各手紙が本件書籍において、財産的に重要なものであること、すなわち、本件書籍購入の 意欲をそそり、本件書籍の商業的成功をもたらすという点で重要なものであることは明ら かである。評論家が、文学的観点から、控訴人福島の文学を評価し、本件各手紙の重要性 に言及していないとしても、そのことによって、本件書籍における本件各手紙の商業的重 要性が否定されるものではない。  また、控訴人らは、本件各手紙が著作権者によって公表される可能性はゼロ、したがっ て逸失利益もゼロというのが通常の感覚であると主張する。  しかし、本件各手紙は、著名な文学者である三島由紀夫の著作物であるから、その文学 的価値が高いか否かはともかくとして、これについての著作権に相当な財産的価値がある ことは明らかである。そして、このように財産的価値のある著作権を侵害された場合には、 著作権者に損害が発生すると推認すべきであることは当然である。控訴人らは、本件各手 紙が著作権者によって公表される可能性がゼロであると主張するが、これを認めるに足り る証拠はない。本件各手紙を公表すれば三島由紀夫の名誉声望が低下することはあるとし ても、そのことを受忍した場合には、著作権者において本件各手紙を複製して販売する等 して経済的利益を得ることが容易であることは明白である。そうである以上、そのように して経済的利益を得るか否かは、著作権者の意思次第であって、著作権者である被控訴人 らがそのような選択をする可能性がゼロなどということは到底できないのである。控訴人 らの主張は、採用できない。 第四 結論  以上のとおり、原判決は相当であって、本件控訴は理由がないから棄却することとし、 訴訟費用の負担につき民事訴訟法六一条、六五条、六七条を適用して、主文のとおり判決 する。 東京高等裁判所第六民事部 裁判長裁判官 山下 和明    裁判官 山田 知司    裁判官 宍戸  充