・京都地判平成13年11月1日  人工歯事件。  本件は、原告(株式会社松風)が、原告の従業員であった被告Aが、原告の営業秘 密である人工歯の原型を持ち出し、被告山八歯材工業株式会社に開示し、被告会社が 故意もしくは過失によって同営業秘密を使用して被告商品を製造販売しているとして、 被告会社に対し、不正競争防止法2条1項5号、6号、3条に基づいて被告商品の販 売の停止、被告商品の製造のための石膏原型及び金型の廃棄を求めるとともに、被告 Aに対しては同法2条1項4号、4条、民法719条に基づき、被告会社に対しては 不正競争防止法2条1項5号、6号、4条、5条1項、民法719条に基づき、損害 賠償として、連帯して200万円及び遅延損害金の支払を求めた事案である。  判決は、「被告Aがミラー反転を用いて作製した本件原型を持ち出し、被告会社に 開示した可能性はかなり高いことが推認される」、「被告商品が本件原型を使用して 作製されている可能性が高いところからすれば、本件原型(これに化体されている情 報)の有用性が推認される」としながらも、「『秘密として管理されている』といえ るためには、当該情報の保有者が秘密に管理する意思を有しているのみではなく、こ れが外部者及び従業員にとって客観的に認識できる程度に管理が行われている必要が あるというべきである」としたうえで、「原告においては、少なくとも、内部の従業 員に対する関係では、客観的に認識できる程度の秘密管理はされていなかったという ほかはない」として、秘密管理性を否定し、原告の請求を棄却した。 ■争 点 (1) 被告Aは、本件原型を持ち出し、被告会社に開示したか。 (2) 本件原型は営業秘密に該当するか。 (3) 被告らに損害賠償義務が認められた場合、賠償すべき額。 ■判決文 第4 争点に対する判断 1 争点(1)(被告Aは、本件原型を持ち出し、被告会社に開示したか。)について (1) 原告は、被告Aが本件原型を持ち出したことを裏付ける証拠として、本件メ ロット原型と被告商品との二次元的比較の結果及び本件原型と被告商品との三次元的 比較の結果を援用する。しかるに、被告らは、前提問題として、本件メロット原型が 被告Aの作製した石膏原型からの複製かどうかについて疑問を呈し、また、原告が本 件原型の写真であるとする甲83の被写体が本件原型であることを否定するので、ま ず、これらの点について検討しておく。 ア 本件メロット原型は、被告Aの作製した石膏原型(以下「本件石膏原型」と いう。)からの複製かについて  (ア) 被告らは、本件メロット原型の複製品(甲86)と本件原型の複製品 (甲84)を比較すれば、咬頭部と溝の形状が異なる旨を主張する。     しかし、証人C(以下「証人C」という。)の証言によれば、原告におい て、石膏原型からメロット原型までの工程においては形状変化は生じないが、デジタ イジングマスターから金型マスターを作製する際に被告ら主張のような形状の変化が 生じるが、許容範囲であるとしていることが認められるから、被告ら指摘の相違は、 本件メロット原型が本件石膏原型からの複製であることを否定するものではない。 (イ) 被告らは、本件石膏原型は、排列による噛み合わせが一応完了した状態 であったのに、本件メロット原型は咬合器に排列して咬合具合を調整してもどうして もうまく噛み合わせることができないと主張する。   しかし、甲285(メロットメタル原型複製歯排列検証結果報告書)によ れば、本件メロット原型を複製しコピーした石膏歯を基準に従って排列すると、基本 通りの噛み合わせが可能であることが認められるから、被告らの上記主張を採用する ことはできない。 (ウ) 被告らは、本件石膏原型にはスピルウエーがついていなかったのに、本 件メロット原型複製品にはこれがついていると主張する。   しかし、甲143の2及び証人Cの証言に照らせば、被告Aは、石膏原型 彫刻の際に咬頭と共にスピルウェーも彫刻していたことがうかがわれるから、被告ら の上記主張を採用することはできない。 なお、被告らは、原告は本件メロット原型に被告商品にみられるようなひ げ状の曲線を後から付加した旨を主張するが、甲143の5、7及び証人Cの証言に よれば、被告ら主張の曲線は、甲143の7に記載のある下顎四臼歯近遠心中心溝の ことを指すところ、原告においては、平成6年5月時点で、上記中心溝を検討してい たのであり、被告商品を参考としたものではないことが認められるから、被告らの上 記主張を採用することはできない。  (エ) 以上のとおり、被告らが、本件メロット原型が本件石膏原型からの複製 であることに疑問を呈する点はいずれも理由がないのであって、本件メロット原型は、 本件石膏原型から複製したものであると認められる(弁論の全趣旨)。 イ 甲83の被写体が本件原型であるかについて   原告は、甲83の被写体は、被告Aが原告学術2課に提出して評価を求めた 本件原型中の1個であるとして、甲83を提出する。しかるに、被告らは、被告Aが 人工歯開発のため複製に使用していた石膏は、淡チョコレート色ないしベージュ色を した原告の商品「デンサイト」(超硬石膏)であるのに、甲83の被写体は外観が黄 色であり、原告商品「ヒドロギブス」(硬石膏)などを使用したものとみられるから、 甲83の被写体は原告に残された原型ではない旨主張し、被告Aも同旨の供述及び陳 述(乙44)をする。    しかし、甲143の11、16、証人Cの証言によれば、被告Aは、人工歯 複製の際に、ヒドロギブスを使用していたこと、当時の開発過程において、ミラー反 転の左右対称性の精度が問題となっていたところ、Cが平成7年2月か3月ころ、被 告Aが試作した臼歯原型の左右対称性を検証するためにスライド撮影したものの1つ が甲286の写真であり(同号証にRDPU−112とあるは1994年8月発売、 1996年2月有効期間との意味であり、22AHGOとあるは製造工場番号を示す)、 その被写体は黄色(ヒドロギブス)であることが認められるから、被告らの上記主張 は採用することができない。    そして、証拠(甲143の17ないし20、乙44、証人C、被告A本人) によれば、被告Aは、33型の臼歯原型を縮小して30型の本件原型、28型の原型 を作製した上、外部の研究者(日本歯科大、K・K・D診療所)に各1個を示したと ころでは、右側の嵌合には問題があるが、この点がなければ実に排列が容易であると の意見であったこと、被告Aは、30型の本件原型のうちの1個を原告学術2課に提 出して評価を求めたが、甲83の被写体は、上記原告学術2課に提出されたものであ ることが認められる。  したがって、甲83の被写体は本件原型であると認められる。 (2) 被告商品(Mタイプ)と、本件メロット原型を二次元的に比較した結果(甲 4ないし67〔枝番を含む〕)によれば、両者は、特にスピルウエーの点において顕 著に類似することが認められる。 (3) 本件原型と同一の金型用マスターから作製された原型と被告商品の複製を非 接触三次元形状計測装置「コノスキャン3000」で形状計測し、その計測データを 三次元曲面生成ソフト「Wrap」で三次元的曲面を生成して両者の形状を三次元的 に比較すると、両者は相当高度に一致することが認められる(甲171ないし274)。 そして、16歯がことごとく高度の一致を生じることは、原型の流用以外に想定する ことが困難な事態である(証人D、同E。なお、E証人は、原告、被告のいずれとも 競業関係に立つ株式会社ジーシーの取締役技術部長であり、その証言の信用性は高い といえる。甲289、290)。   原告が被告商品の複製を作製するのに用いた方法(被告商品の各部位の歯を原 告製品である歯科複模型用シリコン印象材〔デュプリコン〕で型取りし、これにエル コデント社製模型材「ダイメット−e」を流し込み硬化させる)についても特に収縮 により型取りした製品と形状を異にするなどの問題はない(証人E、同D)。   なお、「コノスキャン3000」は、発行部と受光部が同一軸上に位置してい るため、死角が極めて少なく、水平を0度とした場合、85度程度の急な斜面も計測 することができ、レンズを交換するだけで必要な精度、測定深さを得ることができる という特徴があり、小さなサイズの割に起伏の変化が大きく急な斜面を有し、主に自 由曲面で構成される人工歯の計測に適している(甲275、283、証人D)。  (4) 被告の販売した被告商品以前の商品であるエフセラーP、ナパース、ミリオ ンと被告商品(30型)の左右対称性を、これらの商品の拡大写真により二次元的に 比較すると、後者は、特にスピルウエーの点において、従前の各商品に比して顕著な 左右対称性を示していることが認められる(エフセラーPにつき甲88、107ない し118、ナパースにつき甲89、119ないし130、ミリオンにつき甲90、1 31ないし142、被告商品につき甲87、91ないし106)。従前の商品は、被 告が比較的左右対称性があるとするエフセラーPについても、上顎第1大臼歯につい て、左右で、スピルウエーの細かい寸法のみならず、形状においても差異がみられる (甲109、110)。  (5) 上記(3)同様に「コノスキャン3000」及び「Wrap」を用いて作製した 三次元画像データにより、被告商品と、従来商品であるエフセラーPを三次元的に比 較すると、前者は、裂溝の位置、裂溝の交点などポイントとなる点について著しい左 右対称性を示すのに対し、後者は裂溝の位置などがずれていることが認められる(被 告商品につき甲191と250、226と263により上顎左側第1大臼歯と上顎右 側大1大臼歯、下顎左側第1大臼歯と下顎右側第1大臼歯を比較対照し、エフセラー Pにつき甲276・277と278、甲279・280と281により上顎左側第1 大臼歯と上顎右側大1大臼歯、下顎左側第1大臼歯と下顎右側第1大臼歯を比較対 照。)。    これは被告商品が従来商品と異なり、コンピュータによるミラー反転を使用し ていることをうかがわせるものである(証人E)。 (6) 被告が、被告商品と、本件原型(甲83)のもととなった本件メロット原型 を比較した三次元計測結果(乙35)については、@使用機械がレーザー光線を用い た三角測量方式(発光部、受光部、対象物の測定点の角度によって、発光部と測定対 象物上の測定点の間の距離を算出する。)によっているところ、レーザー光線が回り 込めない陰の部分の測定ができないこと、測定点の傾斜が急になると測定誤差も大き くなるなどの問題があり、その結果測定データの欠落が存在したり、写真にはない異 常な凹凸形状が示されたりしていること、A高さ情報を示す色分けのピッチが0.2 5ミリメートル、計測ピッチが0.1ミリメートルとかなり粗いことなどから、原告 の三次元計測方法(上記(4)(6))に比べ、信用性が低いものと認められる(甲283、 証人E、同D)。   また、被告が、被告商品とエフセラーPの左右対称性がさほど変わらないとし て提出する乙1ないし34は、二次元的評価である上にマーカーの記載の仕方が大雑 把であり、証拠価値は低いものといわざるを得ない。被告商品とジーシーのミラー反 転技術を使用した商品「サーパス」を比較した乙45ないし63についても同様であ る。 (8) 以上によれば、被告Aがミラー反転を用いて作製した本件原型を持ち出し、 被告会社に開示した可能性はかなり高いことが推認されるといえる。 2 争点(2)(本件原型は営業秘密に該当するか。)について (1) 上記1認定のとおり被告商品が本件原型を使用して作製されている可能性が 高いところからすれば、本件原型(これに化体されている情報)の有用性が推認され る。 (2) そこで、これが、営業秘密として管理されていたかを検討するに、不正競争 防止法2条4項が、営業秘密として保護される情報は秘密管理されることを要件とし ているのは、当該情報が営業秘密として客観的に認識できるように管理されているの でなければ、当該営業秘密の取得や使用、開示を行おうとする者にとって当該行為が 差止めの対象となるかどうかの予見可能性が損なわれ、経済活動の安定性が阻害され ることを理由とするものと解せられる。そうすると、「秘密として管理されている」 といえるためには、当該情報の保有者が秘密に管理する意思を有しているのみではな く、これが外部者及び従業員にとって客観的に認識できる程度に管理が行われている 必要があるというべきである。  そこで、本件原型について、上記のような秘密管理がされていたかを検討する。  証拠(乙44、証人C、被告A本人)によれば、原告においては、被告A在籍 当時、石膏原型について保管場所が特定されていたわけではなく、各担当者の任意の 保管に委ねられ、置く場所についても各社員の机の上、作業机の上若しくはロッカー とまちまちであり、被告Aも本件原型を自己の机の上に置いたままにしていたこと、 帰宅の際などには、これをクロスで覆っていたが、これは埃や日光を避けるためであ ったこと、石膏原型やメロット原型自体、あるいはこれを収納する入れ物等に部外秘 の表示がされていなかったこと、人工歯見本も、現在は、ロッカー内に保管されてい るが(甲82)、従前は、担当者がポリ袋にいれるなどして、適宜、研究室に保管し ていたこと、担当者は、人工歯の試作品を持ち出して、外部の専門家に場合によって は数日間預け、その排列等の評価をしてもらっていたこと、その際、秘密保持契約は 締結されていなかったことが認められる。  上記認定事実によれば、原告においては、少なくとも、内部の従業員に対する 関係では、客観的に認識できる程度の秘密管理はされていなかったというほかはない。 (3) 原告は、石膏原型、メロット原型、デジタイジングマスター及びデジタイジ ングデータ、金型用マスターのそれぞれについて、@所定の場所に管理されており、 外部の者はもちろんのこと、原告社内の者であっても、担当のグループの承諾なくし てこれをほしいままに搬出することはできなかったこと、A原告が社運を賭けて開発 している人工歯のその段階における技術上の到達度を示す情報であり、担当のグルー プを構成する者は当然のことながら機密であることを自覚していたことをもって秘密 管理性の根拠とするが、@の「所定の場所における管理」がされていたとの点は上記 認定に照らし採用できず、「社内の者であっても、担当のグループの承諾なくしてこ れをほしいままに搬出することができ」ないことも、研究所では通常のことであって 特別な管理行為とは認め難いところであり(さらに、研究所への部外者の立入禁止、 帰宅の際に鍵を預けることなど−証人C−に至っては、通常の社屋管理のあり方であ り、特に内部の従業員に対する関係における秘密管理行為とはいえない。)、また、 Aについても、石膏原型、メロット原型、デジタイジングマスター及びデジタイジン グデータ、金型用マスター、さらに本件原型を含む人工歯見本は、それぞれ工程にお ける段階を異にする上、完全な試作にとどまるものか具体的に商品化に向けたものか などによって有用性を異にし、企業において秘密として扱うか否かも異なり得るので あるから、具体的な管理措置もなく、当然に営業秘密であることが自明であるものと はいえない(甲299ないし301の記載及び証人Cの供述中には、これと異なり、 営業秘密であることが社内の共通認識である旨を述べる部分があるが、上記説示に照 らして直ちに採用することはできない。)。特に、本件原型を含む人工歯見本の場合 は、不具合をチェックするためのものであり(甲284)、それ自体が直接製品化に つながるものではなく変更の可能性も高いものだけに(平成7年10月31日付月間 報告書《甲143の20》において、「咬合面の修正を行なう必要があると同時に2 8型、30型等、今回の縮小した臼歯原型に於いてはカラー部より歯頸部1/3の部 位は外形が不鮮明になっており修正しなければ原型として使用できず臼歯外形を含む 手直しが必要です。」とされている。)、なおさらである。   原告が金型の作製を下請に出す際の秘密保持覚書(甲305)において、「本 覚書において『機密情報』とは、本取引において相手方から開示・提供を受けた有形 の資料(図面、文章、仕様書、データ、サンプル等)で機密である旨の表示を行った ものをいい、機密である旨を示して口頭で開示された場合は、開示後に書面化したも のをいうが、書面化されないものについても、良識において機密扱いとする。」とあ るところからも、当業者において何が秘密であるかは自明であるとはいえないことが 窺えるものである。    なお、原告の就業規則(甲292)には、3条(規則遵守の義務)(5)に「社 員は誓約書及び秘密保持規程に従い、企業秘密を不正に開示、遺漏し、又は使用して はならない」とあり、45条(懲戒事由)(11)に「会社の業務に関する秘密をもらし、 又はもらそうとしたとき」とあるが、何が「企業秘密」ないし「業務に関する秘密」 であるのかを特定するものではない。 3 結 論 以上のとおりであって、原告の本訴請求はその余の点について判断するまでもな く、いずれも理由がないから棄却することとする。 京都地方裁判所民事第2部 裁判長裁判官 赤西 芳文    裁判官 本吉 弘行    裁判官 矢作 泰幸