・東京地判平成14年7月17日判時1799号155頁  ブラジャー事件  被告(有限会社プティ・ボア)の代表者である訴外Yは、平成10年1月24日、原告 Xに対し、乳癌等で乳房を切除した女性が補整用に用いるブラジャーの製作を依頼した。 原告は、左右の乳房を別個に保護、補整する左右分離型のブラジャーを左右一対として組 み合わせたブラジャーの試作品を縫製し、同年3月中旬ころ、これをYに送付した。  被告は、平成10年4月22日に行った当初出願に基づき、平成11年1月27日、国 内優先権主張を伴う特許出願をした。特許庁審査官は、平成12年2月22日、国内優先 権出願につき、特許査定をした。平成12年3月24日、被告を特許権者として本件特許 権の設定の登録がされた。  本件は、原告が、本件特許権の特許権者として設定登録されている被告に対し、本件特 許発明の発明者は原告であり、被告は冒認出願をして本件特許権を得たものであるとして、 本件特許権の移転登録手続を求めた事案である。  判決は、「原告が本件特許発明の真の発明者であり、被告が冒認者であるとしても、そ のことから直ちに、原告の被告に対する本件特許権の移転登録手続請求を認めることはで きない」「本件は平成13年最高裁判決とは事案を異にするということができる」などと して、請求を棄却した。 ■判決文 第3 当裁判所の判断 1 本件特許発明は、原告により発明されたか。  《中略》 2 原告は移転登録手続請求権を有するか。 (1)以上のとおりであるから、被告は、いわゆる冒認出願(発明者又は発明者から特許 を受ける権利を承継した者(以下「発明者等」という。)以外の者による出願)により本 件特許権の設定登録を受けたことになる。  そこで、冒認出願に対する発明者等の保護に関する特許法の諸規定及び特許権の設定登 録の効果について検討する。  まず、特許法は、発明者が特許を受ける権利を有するものとし(特許法29条1項柱書 き。以下「法」という。)、冒認出願に対しては拒絶査定をすべきものとしている(法4 9条6号)。また、冒認出願は先願とはされず(法29条の2括弧書き、法39条6項)、 新規性喪失の例外規定(法30条2号)を設けて、冒認出願がされても発明者等が特許出 願をして特許権者となり得る余地を残し、発明者等の特許を受ける地位を一定の範囲で保 護している。冒認出願者に対して特許権の設定登録がされた場合、その冒認出願は無効と されている(法123条1項6号)が、特許法上、発明者等が冒認者に対して特許権の返 還請求権を有する旨の規定は置かれていない。さらに、特許権は、特許出願人(登録後は 登録名義人となる。)を権利者として発生するものであり(法66条1項)、たとえ、発 明者等であったとしても、自己の名義で特許権の設定登録がされなければ、特許権を取得 することはない。  このような特許法の構造に鑑みると、特許法は、冒認出願をして特許権の設定登録を受 けた場合に、当然には、発明者等から冒認出願者に対する特許権の移転登録手続を求める 権利を認めているわけではないと解するのが相当である。  そうすると、原告が本件特許発明の真の発明者であり、被告が冒認者であるとしても、 そのことから直ちに、原告の被告に対する本件特許権の移転登録手続請求を認めることは できない。 (2)この点について、原告は、本件が平成13年最高裁判決と同様の事案であるから、 同判決の法理に基づき原告の請求は認められるべきであると主張する。しかし、本件は、 以下のとおり、移転登録請求を認めた平成13年最高裁判決とは事案が異なり、同様に判 断することはできない。 ア 平成13年最高裁判決の事実経緯について  同判決の事案は、以下のとおりである。すなわち、特許を受ける権利の共有者(真の権 利者)である上告人が他の共有者と共同で特許出願をした。ところが、被上告人が、上告 人から権利の持分の譲渡を受けた旨の偽造した証書を添付して、出願人を上告人から被上 告人に変更する旨の出願人変更届を特許庁長官に提出したため、被上告人及び他の共有者 に対して特許権の設定の登録がされたというものである。  同最高裁判決は、以下のとおり、「本件の事実関係の下においては」、真の権利者は、 無権利者に対し、無権利者の特許権の持分について移転登録手続を請求することができる 旨判示した。  すなわち、「上記・・・の事実関係によれば、本件発明につき特許を受けるべき真の権 利者は上告人及び上告補助参加人であり、被上告人は特許を受ける権利を有しない無権利 者であって、上告人は、被上告人の行為によって、財産的利益である特許を受ける権利の 持分を失ったのに対し、被上告人は、法律上の原因なしに、本件特許権の持分を得ている ということができる。また、上記・・・の事実関係の下においては、本件特許権は、上告 人がした本件特許出願について特許法所定の手続を経て設定の登録がされたものであって、 上告人の有していた特許を受ける権利と連続性を有し、それが変形したものであると評価 することができる。  他方、上告人は、本件特許権につき特許無効の審判を請求することはできるものの、特 許無効の審決を経て本件発明につき改めて特許出願をしたとしても、本件特許出願につき 既に出願公開がされていることを理由に特許出願が拒絶され、本件発明について上告人が 特許権者となることはできない結果になるのであって、それが不当であることは明らかで ある(しかも、本件特許権につき特許無効の審決がされることによって、真の権利者であ ることにつき争いのない上告補助参加人までもが権利を失うことになるとすると、本件に おいて特許無効の審判手続を経るべきものとするのは、一層適当でないと考えられる。)。 また、上告人は、特許を受ける権利を侵害されたことを理由として不法行為による損害賠 償を請求する余地があるとはいえ、これによって本件発明につき特許権の設定の登録を受 けていれば得られたであろう利益を十分に回復できるとはいい難い。その上、上告人は、 被上告人に対し本件訴訟を提起して、本件発明につき特許を受ける権利の持分を有するこ との確認を求めていたのであるから、この訴訟の係属中に特許権の設定の登録がされたこ とをもって、この確認請求を不適法とし、さらに、本件特許権の移転登録手続請求への訴 えの変更も認めないとすることは、上告人の保護に欠けるのみならず、訴訟経済にも反す るというべきである。  これらの不都合を是正するためには、特許無効の審判手続を経るべきものとして本件特 許出願から生じた本件特許権自体を消滅させるのではなく、被上告人の有する本件特許権 の共有者としての地位を上告人に承継させて、上告人を本件特許権の共有者であるとして 取り扱えば足りるのであって、そのための方法としては、被上告人から上告人へ本件特許 権の持分の移転登録を認めるのが、最も簡明かつ直接的であるということができる。  もっとも、特許法は、特許権が特許庁における設定の登録によって発生するものとし、 また、特許出願人が発明者又は特許を受ける権利の承継者でないことが特許出願について 拒絶をすべき理由及び特許を無効とすべき理由になると規定した上で、これを特許庁の審 査官又は審判官が第1次的に判断するものとしている。しかし、本件においては、本件発 明が新規性、進歩性等の要件を備えていることは当事者間で争われておらず、専ら権利の 帰属が争点となっているところ、特許権の帰属自体は必ずしも技術に関する専門的知識経 験を有していなくても判断し得る事項であるから、本件のような事案において行政庁の第 1次的判断権の尊重を理由に前記と異なる判断をすることは、かえって適当とはいえない。 また、本件特許権の成立及び維持に関しては、特許料を負担するなど、被上告人の寄与に よる部分もあると思われるが、これに関しては上告人が被上告人に対して被上告人のした 負担に相当する金銭を償還すべきものとすれば足りるのであって、この点が上告人の被上 告人に対する本件請求の妨げになるものではない。  以上に述べた点を考慮すると、本件の事実関係の下においては、上告人は被上告人に対 して本件特許権の被上告人の持分につき移転登録手続を請求することができると解するの が相当である。」と判示した。 イ 本件の事実経緯について  これに対して、本件の事実経緯は以下のとおりである。  すなわち、前記のとおり、原告は、本件特許発明につき、発明者であり、また特許を受 ける権利を有する者ではあるが、自らは特許出願をせず、被告のみが、当初出願及び国内 優先権出願をした。また、原告は、本件特許発明に係る当初出願がされた平成10年4月 22日から約1か月半後の同年6月9日、Yから当初出願の出願書類を渡され、被告が本 件特許発明の発明者をY及びKとして当初出願をした事実を知り、自らが当初出願の出願 人となっていなかったことに対して強く不満を持ったが、そのことを直接Yに告げること もなく、平成11年2月に至り始めてYに対し原告を当初出願の出願人に加えるように求 めた。その後、同年5月に発行された新聞に本件特許発明の実施品であるブラジャーに関 する記事が掲載されたが、それまで本件特許発明の新規性を失わせる出来事はなかった (甲4、7の2及び13)。さらに、原告は、特許庁に対し、平成13年5月14日、本 件特許権について無効審判請求(無効2001−35204)をし、同審判事件は現在特 許庁に係属中である(甲8)。 ウ 検討  そこで、平成13年最高裁判決の事案と本件事案とを比較検討すると、以下の点におい て異なり、原告に本件特許権の移転登録手続請求権を認めるのは相当でない。 (ア)第1に、平成13年最高裁判決事案では、上告人は、自ら他の共有者と共同で特許 出願をしていたのに対して、本件事案では、原告は、自ら特許出願をすることはなく、被 告のみが、当初出願及び国内優先権出願をした点において相違する。  平成13年最高裁判決は、「本件特許権は、上告人がした本件特許出願について特許法 所定の手続を経て設定の登録がされたものであって、上告人の有していた特許を受ける権 利と連続性を有し、それが変形したものであると評価することができる。」と判示し、真 の権利者が特許出願をしたことを前提として特許を受ける権利と特許権との間に連続性が あると評価すべきであるとしている。すなわち、特許法は、特許権が特許出願に対する特 許査定(又は審決)を経て設定登録されることにより発生するものと定めており、このよ うな特許法の特許権の付与手続の構造に照らすと、平成13年最高裁判決の事案において、 自ら特許出願をした真の権利者である上告人に対して特許権の持分の移転登録手続請求を 認めて権利者の救済を図ったしても、真の権利者が既に行った特許出願に対して特許がさ れたとみる余地があるから、特許法の登録制度の構造における整合を欠くことにはならい ない。  これに対し、原告に本件特許権の移転登録手続請求を認めることは、自ら特許出願手続 を行っていない者に対して特許権を付与することを認めることとなり、特許法の制度の枠 を越えて救済を図ることになって、上記の登録制度の構造に照らして許されないというべ きである。 (イ)第2に、平成13年最高裁判決は、上告人が特許出願をした後に、被上告人が、上 告人から権利の持分の譲渡を受けた旨の偽造した証書を添付して、出願人を上告人から被 上告人に変更する旨の出願人変更届を特許庁長官に提出したという事案に関するものであ り、同事件においては、発明が新規性、進歩性等の要件を備えていることは当事者間で争 われておらず、専ら権利の帰属が争点とされていた。このような事案においては、特許権 の帰属自体は必ずしも技術に関する専門的知識経験を有していなくても判断し得る事項と いうことができる。  これに対して、本件は、私人間の権利変動ではなく、真の発明者が誰かという正に特許 庁の専門分野に属する事項が争点とされている事案であって、平成13年最高裁判決とそ の争点の性質が大きく異なる。 (ウ)第3に、平成13年最高裁判決は、「上告人は、本件特許権につき特許無効の審判 を請求することはできるものの、特許無効の審決を経て本件発明につき改めて特許出願を したとしても、本件特許出願につき既に出願公開がされていることを理由に特許出願が拒 絶され、本件発明について上告人が特許権者となることはできない結果になるのであって、 それが不当であることは明らかである」と判示し、移転登録手続請求を認める以外には、 上告人に生じた不都合を是正する他の救済方法が存在しなかったことを理由の一つに挙げ ている。   これに対して、上記のとおり、原告は、本件特許発明について冒認出願がされたことを 知った後、遅くとも平成11年4月までの間に自ら本件特許発明について特許出願をして いれば、被告のした当初出願又は国内優先権出願を排除することができ、本件特許発明に ついて、自ら特許権を取得することができたものといえる。そうすると、原告には自ら本 件特許発明について特許権を取得する機会があったといえる。したがって、本件において は、真の権利者であるにもかかわらず、特許権を取得する方法がないという不合理な結果 が生じたということはできないから、例外的に特許権の移転登録請求を認めて真の権利者 の救済を図る必要性は、極めて低いというべきである。 ウ 上記イに述べたところを総合すれば、本件は平成13年最高裁判決とは事案を異にす るということができるから、原告の上記主張は採用できない。 6 結論  以上の次第で、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとお り判決する。 東京地方裁判所民事第29部 裁判長裁判官 飯村敏明    裁判官 榎戸道也    裁判官 佐野信