・東京地決平成15年6月11日  ノグチ・ルーム移設事件  債務者法人(学校法人慶應義塾)は、その経営に係る慶應義塾大学の東京都港区三田所 在の三田キャンパスにおいて、慶應義塾大学大学院法務研究科を開設するために、新校舎 を建設するに当たり、同キャンパス内に存する建築家谷口吉郎(故人)と彫刻家イサム・ ノグチ(故人)が共同設計したという第二研究室棟(本件建物)を解体し、本件建物の一 部、イサム・ノグチ製作に係る本件建物に隣接する庭園及び庭園に設置された彫刻2点を、 新校舎3階部分に移設する工事を実施しようとしている。債権者(ザ・イサム・ノグチ・ ファウンデイション・インクは、イサム・ノグチの死後、同人の著作物に関する一切の権 利を承継したとして、債務者の行為はイサム・ノグチの著作者人格権(同一性保持権)を 侵害するものであると主張し、また、同財団を除くその余の債権者11名(債権者教員ら) は、いずれも慶應大学の教員であるが、世界的文化財の同一性を享受することを内容とす る文化的享受権を有するなどとし、債務者の行為は同権利を侵害するものであるなどと主 張して、いずれも債務者に対し、本件建物等の解体、移設工事の差止めを求めている。  判決は、遺言書から、「債権者イサム・ノグチ財団については、イサム・ノグチから我 が国著作権法116条3項にいう『指定』を受けていたことについて疎明がされていると いうことができない」として請求を棄却しつつ、傍論として、「本件工事は、著作権法2 0条2項2号にいう建築物の増改築等に該当するものであるから、イサム・ノグチの著作 者人格権(同一性保持権)を侵害するものではない」「仮に本件工事について著作権法2 0条2項2号が適用されないとしても、同法60条但書の適用により、本件工事は許容さ れるというべきである」などと述べた。 ■争 点 (1) 本件申立ての適格 ア 債権者イサム・ノグチ財団について イ 債権者教員らについて (2) 著作者人格権(同一性保持権。著作権法20条1項)の侵害の有無  ア 本件工事による著作物改変の有無について  イ 著作権法20条2項2号又は60条但書の適用の有無について (3) 保全の必要性 ■判決文 第5 当裁判所の判断 1 争点(1)(本件申立ての適格)について (1) 債権者イサム・ノグチ財団の本件申立て適格について  ア(ア) そもそも、著作権法59条においては、「著作者人格権は、その性質上著作者 の一身に専属し、譲渡することができない。」と規定され、著作者の死亡とともに著作者 人格権は消滅し、著作者人格権は、譲渡や相続の対象とならない性質のものであることが 明確に示されており、これを前提とした上で、著作者の死後における人格的利益の保護を 可能にするため、同法60条により、著作者の死後において、著作者が生存しているとし たならば、その著作者人格権の侵害となるべき行為が禁止され、かつ、同法116条にお いて、同法60条に違反する行為等の侵害行為に対し、著作者の人格と密接な関係があり、 著作者の生前の意思を最も適切に反映し得る者が差止請求権等を行使し得るものとされて いるのであるから、著作者死亡後における著作者人格権は、同法116条において認めら れた者が上記請求権等を行使するという限りで保護されるにすぎない。そして、同条1項 は、著作者の遺族(死亡した著作者の配偶者、子、父母、孫、祖父母又は兄弟姉妹)が上 記請求権を行使し得るものとし、同条3項には、「著作者又は実演家は、遺言により、遺 族に代えて第1項の請求をすることができる者を指定することができる。」と規定されて いることからすれば、著作者の遺族以外の者は、著作者の遺言による指定を受けることに よってのみ、上記の請求権を行使することが可能になる。  本件においても、債権者イサム・ノグチ財団が、イサム・ノグチの著作者人格権を侵害 された場合に差止め等の請求権を行使できるか否かは、イサム・ノグチが、遺言により債 権者イサム・ノグチ財団を同条3項の請求権者として指定したかどうかによる。  (イ) この点に関し、債権者イサム・ノグチ財団は、著作者人格権が移転したかという 点と移転した権利をこれを行使できるかどうかという点は別個の問題であるとし、前者の 問題は遺贈の効力の問題として米国法を準拠法として判断されるべきであり、他方、著作 権の行使については日本法を基準に判断すべきものであるなどと主張する。  しかし、本件において、債権者イサム・ノグチ財団は、我が国の著作権法上の著作者人 格権(同一性保持権)の行使として、債務者に対して本件工事の差止め等を求めているも のであるところ、上記のとおり、我が国の著作権法においては、著作者人格権は、一身専 属の権利であって、著作者が死亡した場合には、相続財産に含まれず、遺族のうち同法の 定める者又は遺言により指定を受けた者がこれを行使し得るものとされているのであるか ら、本件においては、イサム・ノグチの本件遺言書中の記載をもって、我が国著作権法1 16条3項にいう「指定」と解することができるかどうかを、我が国の著作権法に従って 検討する必要があり、かつ、その検討をもって足りるものである。この点を離れて、本件 遺言書の効力を論ずることは不要であり、本件遺言書によりイサム・ノグチの相続財産が 債権者イサム・ノグチ財団に有効に承継されたかどうかを判断する必要はない。  (ウ) ところで、本件においては、イサム・ノグチの本件遺言書そのものは、本件にお いて疎明資料として提出されておらず、債権者イサム・ノグチ財団は、本件遺言書2条及 び4条の部分が引用された本件合意書(疎甲22)を提出しているにすぎない。そこで、 本件合意書において引用された本件遺言書2条及び4条により、我が国著作権法116条 3項にいう「指定」があったと認めることができるかどうかを、以下検討する。 《中略》  エ 小括  したがって、債権者イサム・ノグチ財団については、イサム・ノグチから我が国著作権 法116条3項にいう「指定」を受けていたことについて疎明がされているということが できないから、結局、被保全権利についての疎明がないことに帰するものであり、同債権 者による本件仮処分の申立ては、主位的申立て、予備的申立てのいずれも却下すべきもの である。 (2) 債権者教員らの本件申立て適格について  ア 債権者教員らは、本件建物、ノグチ・ルーム、庭園及び彫刻について「同一性を享 受することを内容とする文化的享受権」を有する旨主張する。  しかしながら、債権者教員らの主張する上記の「文化的享受権」なるものは実定法上の 根拠を持たないものであり、また、債権者教員らの主張をみても、どのような理由により 債権者教員らがそのような法的請求権を有するのかは明らかでない。  上記によれば、債権者教員らの主張する上記の「文化的享受権」なるもは、そもそも法 的な権利として認められるものではなく、本件において申し立てられている仮処分の被保 全権利となり得るものではない。  イ また、債権者ら教員らは、疎明資料(疎甲17、28、37、48など)を提出し、 債務者法人が、本件工事を進めるに当たって、評議員会の決議を経なかったことは違法で あるから、債権者教員らはそのような違法行為を差し止める権利を有する旨主張している。  しかし、債務者法人における特定の施策に関する意思決定において内部的な手続規程が 遵守されていない場合に、教員である債権者教員らが直接当該施策の執行を差し止めるこ とができるという点については、何ら実定法上の根拠に基づくものではなく、債権者教員 らの主張をみても、どのような理由により債権者教員らがそのような法的請求権を有する のかは明らかでないから、債権者教員らの主張は採用できない(なお、疎乙18によれば、 債務者法人が平成15年5月28日に評議会を開催し、本件工事の実施についての議決を 経たことが認められる。)。  ウ 以上のとおり、債権者教員らについても、被保全権利の疎明がないものといわざる を得ないから、その申立ては、いずれも却下すべきものである。 2 争点(2)(同一性保持権の侵害の有無)について  上記1において判断したところによれば、債権者イサム・ノグチ財団及び債権者教員ら は、いずれも被保全権利の存在について疎明したものといえないから、本件申立てはいず れも却下すべきものである。  したがって、争点(2)については本来判断の必要がないものであるが、事案にかんがみ、 念のため、この点についての当裁判所の判断を示すこととする。 (1) 本件工事による著作物改変の有無について  ア イサム・ノグチの著作物について  本件工事によりイサム・ノグチの著作物が改変されるかどうかの前提として、まず、本 件におけるイサム・ノグチの著作物について検討する。  (ア) 債権者らは、本件建物について、建築家谷口とイサム・ノグチの共同著作物であ り、本件建物、庭園及び彫刻が一体となったものが、イサム・ノグチの著作物である旨を 主張する。  この点について、建築家谷口は、雑誌「新建築」(1952年2月号。疎甲4、疎乙3) において、「‥‥‥『第四号館』、『第五号館』、『学生ホール』の校舎が建ち、続いて 『第二研究室』が新築された。‥‥‥私は、この一連の建物に、意匠の一貫性を求めてい る。それは福沢諭吉によって創建された『演説館』(明治8年〔1875年〕)にこもる 意匠のモラルを各校舎が受けつぐことによって、『福沢精神』のルネッサンスを表現した いと念ずる建築家の構想である。これらの建物は法・文・経の大学院に使用されるもので あるので、その建物の権能に「思索の場」をも加えたいと考え、姉妹芸術の絵画や彫刻と の協力を試みた。‥‥‥今回の『第二研究室』においては、彫刻家野口イサム氏との協力 によって、モダン・アートの彫刻と結びつきたいと考えた。野口氏は『庭園』と『彫刻』 を受け持ち、私は『建築』を担当した。特に『談話室の室内』には、二人の作家的友情を 心から融和させた。私は建築家として、彫刻家の造形性に対して、機能を与え、それを日 本の材料と構造によって施行するために努力した。野口氏の彫刻的才能は普通の彫刻家と 異なって、建築に対する理解が深かったために、二人の協力は予想以上に進展した。」と 述べており、また、雑誌「新建築」(1950年10月号)所収の「彫刻と建築」と題す る文章においては、「私が、イサム・ノグチ氏と共に、三田の丘に設計した新萬来舎の建 物は、『彫刻』と『建築』の協力による思索である。イサム氏がその『庭園』と『クラブ 室の内部』を設計し、私がその『建築』を設計した。しかし、2人の仕事は分離したもの でなく、互いに協力し、スケッチにおいて、製図において、模型において、暑い夏の昼も 夜もいろいろと熟議しあった。この建物は、慶應義塾の校舎に属する一棟であって、従っ て、私が設計した『五号館』、『四号館』、『学生ホール』に並ぶ建物である。私は、明 治8年に福澤諭吉先生が建てられた『演説館』のスタイルを私の設計のテーマとして、そ れによって、三田キャンパスの丘の上に『造形交響曲』を夢想しているが、新萬来舎もそ のシンフォニーの一章にしたいと思っている。」と述べている。また、イサム・ノグチは、 雑誌「新建築」(1952年2月号。疎甲4、疎乙3)の中で、「一つの室と庭とが、私 の提供できる最良の表現であろうと思われました。‥‥‥この計画が、新しい第2研究室 の建物の中にそれと一体となってつく られる場所を見出し得たのは最も幸せでした。視界は西に向かってひらけ、沈んで行く太 陽が、私の彫刻『無』をシルエットにして浮き出させ、天上からの光で点火してそれを石 灯籠のようにします。碧空に向かって聳える鉄の彫刻『学生』は、抱負あふれる学生諸君 への私からの捧げものです。」と述べている。  上記のとおり、谷口とイサム・ノグチは、ノグチ・ルームを含む本件建物、庭園及び彫 刻の製作について、これを両者による共同作業と位置付けているものであるところ、前記 前提事実(第3の2の(1)ないし(4))として記載した事実関係によれば、ノグチ・ルーム は、本件建物を特徴付ける部分であって、本件建物の正面を構成する重要な部分である1 階南側部分を占め、西側庭園に直接面して、庭園と調和的な関係に立つことを目指してそ の構造を決定されている上、本件建物は元来その一部がノグチ・ルームとなることを予定 して基本的な設計等がされたものであって、柱の数、様式等の建物の基本的な構造部分も、 ノグチ・ルーム内のデザイン内容とされているものである。これらの事情に、疎明資料 (疎甲19、20、25ないし27、47等)により認められる事情を総合すると、ノグ チ・ルームを含めた本件建物全体が一体としての著作物であり、また、庭園は本件建物と 一体となるものとして設計され、本件建物と有機的に一体となっているものと評価するこ とができる。したがって、ノグチ・ルームを含めた本件建物全体と庭園は一体として、一 個の建築の著作物を構成するものと認めるのが相当である。  彫刻については、庭園全体の構成のみならず本件建物におけるノグチ・ルームの構造が 庭園に設置される彫刻の位置、形状を考慮した上で、設計されているものであるから、谷 口及びイサム・ノグチが設置した場所に位置している限りにおいては、庭園の構成要素の 一部として上記の一個の建築の著作物を構成するものであるが、同時に、独立して鑑賞す る対象ともなり得るものとして、それ自体が独立した美術の著作物でもあると認めること ができる。  (イ) そして、上記のノグチ・ルームを含む本件建物全体、庭園及び彫刻が一体となっ た建築の著作物はイサム・ノグチと谷口の共同著作に係る著作物であり、独立の著作物と しての彫刻はイサム・ノグチの著作物であるから、イサム・ノグチは、これらの著作物に ついて、共同著作者ないし著作者として、著作者人格権(同一性保持権)を有する。  そこで、上記の一体としての建築の著作物及び独立の著作物としての彫刻が、本件工事 により改変されるかどうかについて、以下検討する。  イ 本件工事による著作物の改変の有無について  (ア) 本件工事がノグチ・ルーム、庭園及び彫刻に対して及ぼす影響について  債務者は、前提事実(第3、3(2))に記載のとおり、できる限り本件建物等の現状を維 持する形でノグチ・ルーム、庭園及び彫刻を移設する計画をしているが、本件工事により、 現状の変更を余儀なくされる具体的な箇所については、疎明資料(疎甲8、44、47) 及び審尋の結果によれば、次のとおり疎明されているものと認められる(なお、本件建物 については、本件工事により本件建物全体としての形状が改変されることは明らかであり、 本件において争われているのも、本件建物内のノグチ・ルームが本件工事により改変され ることとなるかどうかという点にある。したがって、上記のとおり、本件においては、本 件建物全体と彫刻を含めた庭園とが一体として建築の著作物を構成し、これと同時に彫刻 は独立して美術の著作物として存在すると解するが、本件工事による改変の有無を検討す る際には、まず、本件工事がノグチ・ルーム、庭園、彫刻のそれぞれに対して及ぼす影響 を認定した上で、ノグチ・ルーム、庭園、彫刻が一体となった著作物及び独立の著作物と しての彫刻に対して及ぼす影響を検討することとする。)。  a ノグチ・ルームについて  前提事実(第3、2(3))に記載のとおり、ノグチ・ルームは、大型の引き戸スチールサ ッシにより東側キャンパスに開かれ、学生や教職員のアクセスを歓迎しつつ、西側にも同 様の引き戸が配され、西側空間への視野が大きく確保されており、東西の空間特性、開放 性に特徴があるところ、本件工事を実施すれば、移築後の状況においては、その東側に建 物が存在することになる。  また、ノグチ・ルームの室内のインテリア等については、床(さくら無垢フローリング) の部材を改めて新たに製作して、着色塗装し、引き戸のスチール・サッシも解体時に変形 するため、新規に製作する予定である。南側壁面のテラコッタタイルも、解体時に破損す る可能性が高く、その場合には破損タイルを新規に製作して補充することになる。  b 庭園について  前提事実(第3の2の(3))に記載のとおり、庭園は、イサム・ノグチが、庭園部が西側 崖上に位置することを計算し、庭園の大地性の表現のために、西側の崖の斜面から伸びて いる樹木を計算に入れていた。また、庭園の南側は、すぐに演説館と隣接しており、稲荷 山の起伏、演説館の西部分、その裏側にある巨樹などが庭園にいる者の視野に入ることな どを考慮して、設計されている。  本件工事においては、庭園は新校舎3階に移設されるため、庭園の大地性が失われ、あ たかも空中庭園のような浮揚感が生じることになる。  c 彫刻について  前提事実(第3の2の(3)及び(4))によれば、いずれの彫刻も修復が望まれる状況にあ り、本件工事の際に、製作当時の状態に復するように補修する必要がある。  「学生」と題する彫刻は、現在の位置が、イサム・ノグチが製作した当時と異なるため、 専門家と協議のうえ、移設後庭園のどの位置に設置するかを決定することになる。したが って、移設後の位置は、現状と異なる可能性が高い。  (イ) 以上を前提に、本件工事によって、ノグチ・ルーム、庭園及び彫刻が一体となっ た建築の著作物、並びに彫刻の著作物が、改変される結果となるかどうかについて、検討 する。  a 上記のとおり、ノグチ・ルームについてみると、ノグチ・ルームの東側についての 空間的特性が失われること、一般的に鉄筋コンクリートの建築物はいったん解体してしま うと復元が難しいとされており、本件建物の壁面と一体となっているテラコッタタイルの 復元は困難であることなどにかんがみれば、本件工事により、ノグチ・ルームにつき、製 作者の意図した特徴が一部損なわれる結果を生じるといわざるを得ない。  b 「無」と題する彫刻は、ノグチ・ルームの西側庭園中央部に位置し、ノグチ・ルー ムの室内から見ると、日の沈む方向に設置されるなど、その形状・位置がノグチ・ルーム との位置関係を含めた庭園全体の構造において意味を持ち、庭園を構成する要素としてと らえることができるから、その設置場所の変更については庭園全体の改変に当たるかどう かという観点からの検討が必要である。この点については、前記のとおり、本件工事にお いては、「無」と題する彫刻はノグチ・ルームとの位置関係を含めて、彫刻の設置位置、 向き等につき現状をそのまま復元することとされているから、同彫刻の移設のみによって 庭園全体の改変につながるものではない。「学生」と題する彫刻は、現状において、既に イサム・ノグチが当初設置した場所から移設され、イサム・ノグチが意図した位置に所在 しなくなっているものであるから、本件工事により、同彫刻が移設されることが、庭園全 体の改変につながる余地はない。  c しかし、庭園全体についてみると、本件庭園は、イサム・ノグチが、庭園部が西側 崖上に位置することから、庭園の大地性の表現のために、西側の崖の斜面から伸びている 樹木を計算に入れ、庭園の南側がすぐに演説館と隣接しており、稲荷山の起伏、演説館の 西部分、その裏側にある巨樹などが庭園にいる者の視野に入ることなどを考慮して、谷口 と共に設計したものである。本件工事においては、庭園は、全体として、ノグチ・ルーム との位置関係を含めて現状を復元する形で移築されるものではあるが、前記のような、周 囲の土地の形状等をも考慮に入れた上での製作者の意図は、本件工事の施工により失われ てしまうことになる。したがって、庭園については、本件工事により、製作者の意図した 特徴が損なわれる結果を生じるものである。  d なお、前述のとおり、彫刻については、これを庭園の構成要素として考慮するほか、 独立の美術の著作物としても考慮することが可能であるが、独立した美術の著作物として の彫刻においては、製作者の意図は当該彫刻の形状・構造等によって表現されているもの であるから、展示される場所のいかんによって、製作者の意図が見る者に十分に伝わらな いということはない。したがって、独立の著作物としての前記各彫刻は、本件工事により 改変されるものではない。  ウ 小括  上記によれば、本件工事は、ノグチ・ルーム及び「無」と題する彫刻を含めた庭園の現 状をできる限り維持した形でこれを移設しようとするものであるが、本件建物全体につい てその形状が改変されるのはもちろんのこと、本件建物を特徴付ける部分であるノグチ・ ルームについて製作者の意図する特徴を一部損なう結果を生じ、庭園についても周囲の土 地の形状等をも考慮に入れた上での製作者の意図が失われるものであるから、ノグチ・ル ームを含めた本件建物全体と「無」と題する彫刻を含めた庭園とが一体となった建築の著 作物が、本件工事により改変され、著作物としての同一性を損なわれる結果となるといわ ざるを得ない。 (2) 争点(2)イ(著作権法20条2項2号又は60条但書の適用の有無)について  ア 前記の前提事実(第3の3の(1)及び(2))に疎明資料(疎甲8、10ないし15、 17、24ないし26、29、30、38、37、疎乙5、6)及び審尋の結果を総合す れば、債務者の新校舎建築計画に至るまでの経緯については、次の各事実が疎明されてい るものと認められる。  (ア) 債務者法人は、司法制度改革審議会の答申を踏まえ、平成13年10月、評議員 及び慶應大学内の各研究科委員長らが参加する「新大学院構想検討委員会」(以下「新大 学院検討委員会」という。)を設置し、新大学院構想の検討を開始した。合計6回にわた る新大学院検討委員会での検討の結果、平成14年2月、債務者法人において、「スキル (専門)」と「学術」の大学院を車の両輪として設置するのが人材養成の観点から最も望 ましいとの理念から、新大学院である法科大学院を設置し、「法曹養成」と「法学アカデ ミズム」の両立を目指すとの最終提言が、採択された。  債務者法人には、三田キャンパスのほかに、理工学研究科の校舎が日吉に、医学研究科 のための校舎が信濃町に、政策・メディア研究科の校舎が湘南藤沢にあったが、最終提言 では、他の研究科との人事交流を可能にすることを念頭におき、各大学院間相互の共同利 用が可能な施設として機能する新大学院の理念実現のためには、現在債務者法人の学術大 学院が集中し、学術の総本山ともいうべき三田キャンパスにおいてしかその実現は考えら れないとされた。  その過程において、別の場所に校舎を賃借することも検討されたが、文部科学省が、大 学院又は大学院の研究科を設置する場合の校舎の基準として、(1)「申請時において、開設 年度以降10年以上にわたり支障なく使用できる保証がある場合」あるいは(2)「申請時に おいて、借用に係る経費の10年分に相当する額を収納している場合」に限り借用のもの であっても差し支えない旨を定めており、後者の(2)に従って、三田キャンパスの周辺で校 舎を賃借する場合には、少なくとも72億円の金額が必要となると試算されたため、債務 者法人においては、財政上の見地からこれを断念し、前者の(1)の条件を満たすものとして、 新校舎を建設せざるを得なかった。  また、代替地を取得する案も出たが、それにも60億円以上の資金が必要であり、やは り債務者法人の財政上困難であった。  (イ) 別紙「現在の三田キャンパスの状況」を見れば明らかなように、三田キャンパス には、余剰敷地がほとんどなく、既存建物は、すべて学部生施設又は研究施設として利用 されており、これらの一部を転用することも、新大学院において必要とされる規模からす れば不可能であった。  債務者法人の計画では、法科大学院部分だけでも学生690名、教員50名程度の人数 を収容するスペースが必要であり、新校舎の延床面積で5500坪程度の大きさの建物が 必要であった。これを前提に新大学院検討委員会において検討した結果、三田キャンパス 西南地区部分を再整備するしかないという結論に達した。  (ウ) 債務者法人においては、新校舎建設のため、コンペ方式を採用し、平成14年3 月22日、コンペの説明会を開催し、計画、設計及び工期を通し3年間の期間、延床面積 5500坪、10項目の配慮事項を計画案に入れることを要請した。その際、各競技者に 渡された慶應大学(三田)新校舎計画提案競技要綱(疎乙7の1)の「計画に配慮する事 項」には、「ア 三田キャンパスの歴史性と拠点性、イ 三田キャンパス再開発の起点性、 ‥‥‥ケ 重要建造物と自然の保全と調和(野口ルームの保存を含む)‥‥‥」との条件 が掲げられていた。  コンペの結果、株式会社大林組の案(疎乙7の3)、株式会社竹中工務店の案(疎乙7 の2)、大成案が第1次審査を通過した。そして、さらに検討したところ、新校舎1階か ら3階部分までの一部をピロティとして開放空間を設定し、新校舎の東側壁面を西校舎の 東側壁面の位置と揃え、整合性をとって空間的なゆとりを生みだし、人の流れなどにも配 慮し、本件建物跡地の緑地化により最も演説館周辺の環境に配慮し、ノグチ・ルーム及び 庭園についても、イサム・ノグチ及び谷口の意図を継承し、素材に関しても可能な限り既 存の素材を使用して移設するものであること等が建設コストと併せて評価された結果、大 成案が採用されることとなった。  (エ) 一方、平成14年8月、慶應大学文学部教授Pを座長とする「ノグチ・ルーム保 存ワーキンググループ」(以下、単に「保存ワーキンググループ」ともいう。)が発足し、 保存ワーキンググループは、同年12月にかけて、合計8回、30人の専門家のヒアリン グを行い、債務者が実行しようとしている大成案に盛り込まれた「ノグチ・ルーム移設」 に疑問を投げかけ、「新萬来舎」、「ノグチ・ルーム」の重要部分の現状保存のための再 検討を求める記述を含む詳細なレポート「ノグチ・ルーム保存WGによる活動報告ならび に答申」(平成14年12月12日付け。疎甲8)を債務者法人に提出した。また、「新 萬来舎/ノグチ・ルーム」の保存運動が国際的な広がりをもち、平成15年1月には、債 権者イサム・ノグチ財団、アジア・カルチュラル・カウンシル及びウォーカー・アート・ センターの連合による「新萬来舎保存のための国際委員会」による保存要望書が債務者法 人に提出されるなどした。  (オ) 債務者法人は、保存ワーキンググループ等の答申を受け、当初はノグチ・ルーム の1階部分だけを新校舎3階に移す予定であったのを、谷口とのコラボレーションをより 多く残すため、2階部分も含めて移設し、1階と2階を結ぶらせん階段を維持し、また、 ノグチ・ルームの位置方向は、庭園内の彫刻と太陽の動きなどを介して関連づけられてい ることを重視し、その意図を継承するために、庭園の藤棚、彫刻とともにノグチ・ルーム の方向位置関係についても、これを維持することとした。さらに、ノグチが「太陽によっ て灯籠が点火される。」と語っていたという(疎甲8・3頁)、彫刻「無」の円相の中に 西方の落日が浮かび上がるというモチーフを重要視して、同彫刻を製作時の方位を保つ位 置に設置し、ノグチ・ルームの室内デザインについても、選定した素材を極力継承し、既 存の内装材・家具についても、移設可能なものは極力移設し、移設困難なものについては、 調査の上、専門家に検討してもらうなどとして、当初の大成案を変更した。このような変 更を加えた結果が、本件工事の内容となっている。  なお、債権者教員らの提案に係る本件建物を取り壊さずに現状保存したまま、その背後 (西側部分)に新校舎を建設するという案も検討されたが、敷地面積が減少し、隣地への 日陰規制の関係上、建設できる新校舎の延床面積が2400平方メートル減少するという 難点があり、その他の案についても、大幅な設計変更を余儀なくされ、工期の点から採用 は困難であった。  イ 前記の前提事実(第3の3の(1)及び(2))及び上記アの事実に照らし、著作権法2 0条2項2号の適用の有無について判断する。  前記のとおり、本件においては、イサム・ノグチと谷口の共同著作に係る著作物として の、ノグチ・ルームを含む本件建物全体、庭園及び彫刻が一体となった建築の著作物と、 独立の著作物としてのイサム・ノグチの著作に係る「無」、「学生」と題された各彫刻が 問題となるものであるところ、このうち、ノグチ・ルームを含む本件建物全体、庭園及び 彫刻が一体となった建築の著作物が、本件工事により改変を受けるものである。  著作権法20条2項2号は、建築物については、鑑賞の目的というよりも、むしろこれ を住居、宿泊場所、営業所、学舎、官公署等として現実に使用することを目的として製作 されるものであることから、その所有者の経済的利用権と著作者の権利を調整する観点か ら、著作物自体の社会的性質に由来する制約として、一定の範囲で著作者の権利を制限し、 改変を許容することとしたものである。これに照らせば、同号の予定しているのは、経済 的・実用的観点から必要な範囲の増改築であって、個人的な嗜好に基づく恣意的な改変や 必要な範囲を超えた改変が、同号の規定により許容されるものではないというべきである。  これを本件についてみると、上記のとおり、本件工事は、法科大学院開設という公共目 的のために、予定学生数等から算出した必要な敷地面積の新校舎を大学敷地内という限ら れたスペースのなかに建設するためのものであり、しかも、できる限り製作者たるイサム ・ノグチ及び谷口の意図を保存するため、法科大学院開設予定時期が間近に迫るなか、保 存ワーキンググループの意見を採り入れるなどして最終案を決定したものであって、その 内容は、ノグチ・ルームを含む本件建物と庭園をいったん解体した上で移設するものでは あるが、可能な限り現状に近い形で復元するものである。これらの点に照らせば、本件工 事は、著作権法20条2項2号にいう建築物の増改築等に該当するものであるから、イサ ム・ノグチの著作者人格権(同一性保持権)を侵害するものではない(仮に、イサム・ノ グチの著作物として、上記のような本件建物全体と庭園とを一体としてとらえた建築の著 作物ではなく、債権者らの予備的申立てにいうように、本件建物のうちノグチ・ルーム部 分と庭園を問題とした場合であっても、ノグチ・ルームは建築物の一部分として著作権法 20条2項2号の適用を受け、庭園もその性質上、同号の規定が類推適用されるものと解 するのが相当であるから、上記の結論は変わらない。)。  ウ 著作権法60条但書の適用について  著作者人格権は一身専属の権利であり、本来、著作者が存しなくなった後においてはそ の保護の根拠が失われるものであるが(同法59条)、著作権法は、著作者が存しなくな った後においても、一定の限度でその人格的利益の保護を図っている(同法60条)。  この場合において、著作権法60条但書は、著作物の改変に該当する行為であっても、 その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が著作者の意を害しな いと認められる場合には、許容されることを規定している。  そして、著作者の意を害しないという点は、上記の各点に照らして客観的に認められる ことを要するものであるところ、本件においては、上記のとおり、本件工事は、公共目的 のために必要に応じた大きさの建物を建築するためのものであって、しかも、その方法に おいても、著作物の現状を可能な限り復元するものであるから、著作者の意を害しないも のとして、同条但書の適用を受けるものというべきである。  したがって、仮に本件工事について著作権法20条2項2号が適用されないとしても、 同法60条但書の適用により、本件工事は許容されるというべきである。 (3) 上記に判断したところによれば、いずれにしても、債権者イサム・ノグチ財団が 被保全権利を有することが疎明されているということはできない。  3 結論  以上によれば、本件において、債権者らが被保全権利を有することが疎明されていると いうことはできないから、債権者らの主位的申立て及び予備的申立ては、いずれも却下す べきものである。  よって、主文のとおり、決定する。 東京地方裁判所民事第46部 裁判長裁判官 三村 量一    裁判官 青木 孝之    裁判官 松岡 千帆