・東京地判平成19年1月18日  「再分配とデモクラシーの政治経済学」事件  本件は、“The State of Nature and Property Rights Systems”(The Waseda Journal of Political Science and Economics No.355 p.27)という論文(本件原著)を被告B (須賀晃一・早稲田大学教授)と共同執筆した原告(榊原健一・千葉大学教授)が、被告 Bが本件原著を原告に無断で一部省略して翻訳した論文(本件論文)を作成し、被告株式 会社東洋経済新報社がこれを『再分配とデモクラシーの政治経済学』と題する書籍の第4 章として掲載したとして、本件原著の著作権及び著作者人格権(同一性保持権及び氏名表 示権)に基づいて、被告Bに対し、本件論文の発行等の差止めを、被告東洋経済に対し、 本件書籍の発行等の差止め、及び、本件書籍の回収及び廃棄を求め、また、被告らに対し、 本件書籍の回収のための謝罪広告及び全国の大学、図書館等に対する本件書籍の回収を求 める通知、並びに、不法行為による損害賠償として、弁護士費用相当額50万円の支払を 求めた事案である。 ■争 点 (1)本件原著に関する原告の翻案権侵害の成否(争点1) (2)本件原著に関する原告の著作者人格権侵害の成否(争点2) ア 同一性保持権侵害の成否(争点2−1) イ 氏名表示権侵害の成否(争点2−2) (3)侵害の停止及び予防請求並びに名誉回復等の措置の要否(争点3) (4)原告の損害(争点4) ■判決文 第4 当裁判所の判断 1 争点1(本件原著に関する原告の翻案権侵害の成否)について (1)本件論文は、本件原著について、その内容を一部省略しつつ、これを日本語に翻訳 したものであること、並びに、被告Bが、本件論文を作成するに当たり、本件原著の共同 著作者である原告からその承諾を得ていなかったことは、当事者間に争いがない。したが って、被告Bは、本件原著の内容を省略したこと、及び、これを翻訳したことにより、原 告の有する本件原著の翻案権を侵害したものと認められる。 (2)この点について、被告Bは、〔1〕原告は、本件原著の紹介等について、包括的に 許諾していた、被告らは、〔2〕被告Bが、本件原著を本件学会誌に投稿した際、本件原 著の著作権は、翻案権も含めてその一切が本件投稿規程に基づいて本件学会に譲渡された と主張する。  しかし、〔1〕原告が、被告Bに対して、本件原著の紹介等についてその一切を許諾し ていたことを認めるに足りる証拠はない。かえって、被告Bは、本件原著についてセミナ ー等において報告する際には、原告に原稿等を送付して事前に了承を得ていたと主張して いるのであり、本件原著の紹介等についてその一切について許諾を得ていたのであるなら ば、原告の了承を受ける必要性は存しないのである。また、仮に原告が、被告Bに対し、 本件原著の紹介について、事前に許諾を与えていたとしても、被告Bは、本件原著を一部 省略しつつこれを翻訳した上で、本件論文を被告Bの単独著作物として本件書籍に掲載し たのであるから、このような行為を本件原著の「紹介」と評価することはできない。また、 〔2〕本件投稿規程は、「採用された論文等の著作権は、早稲田大学政治経済学会に帰属 するものとする。」と定めているのであり(丙1)、翻案権が譲渡の対象として特掲され ているものではないことからすれば、翻案権は論文執筆者に留保されたものと推定される (著作権法61条2項)。そして、証拠(丙1)によると、本件学会誌は、政治経済学の 研究者による、研究論文、研究ノート(判例研究・学会展望論文も含む)・展望論文、書 評の投稿を募集しているものであるから、研究者が、学術研究の成果物である上記各論文 等を投稿する際において、これらの表現形式を改変する翻案権までも譲渡していると解す べき合理的理由も存しない。したがって、仮に、原告が本件学会誌に本件原著を投稿する ことを承諾したときに、原告が本件投稿規定の内容を認識し得る状況があったとしても、 本件投稿規程において、翻案権が特掲されていない以上、本件投稿規程により、本件原著 の翻案権が本件学会に譲渡されたということはできない。被告らの主張はいずれも採用す ることができない。 2 争点2(本件原著に関する原告の著作者人格権侵害の成否)について (1)争点2−1(同一性保持権侵害の成否)について ア 本件論文は、本件原著について、その内容を一部省略しつつ、これを日本語に翻訳し たものであること、並びに、被告Bが、本件論文を作成するに当たり、本件原著の共同著 作者である原告からその承諾を得ていなかったことは、前記のとおり、当事者間に争いが ない。したがって、被告Bは、原告に無断で本件原著を日本語に翻訳したうえ、その内容 を一部省略して翻訳したのであるから、原告の有する本件原著の同一性保持権を侵害した ものと認められる。  イ 被告Bは、本件論文が本件原著の紹介論文であることは、その体裁上明確であって、 原告が被告Bに対し、本件原著を紹介するための行為一切について、包括的に許諾を与え ていたことからすると、本件論文は、紹介目的に沿って、本件原著の一部分を省略しつつ ほぼ忠実に日本語訳したものであるから、その改変内容は、紹介目的に必要な範囲におけ るものであって、同一性保持権を侵害するものではないと主張する。  しかし、原告が、被告Bに対し、本件原著の紹介について、一切の包括的許諾を与えて いたと認めることができないことは、争点1において認定したとおりである。また、仮に 被告Bが本件原著の紹介目的を有していたとしても、被告Bは、共同著作者である原告の 意思に反し、本件原著の内容の一部(証明等の事項)を省略しつつ、日本語に翻訳して本 件論文を作成したのであるから、かかる目的の存在が、当該改変行為を正当化できるもの ではない。しかも、本件論文には、本件原著の紹介を目的としていることが明記されてお らず、本件論文において、本件原著は21本の参考文献の一つとして、参考文献一覧の1 5番目に記載されているにすぎないこと(甲2参照)、本件論文が本件原著に「基づいて いる」こと、証明等については本件原著を参照してほしい旨が記載されているにすぎない ことからすると、かかる記載によって、本件論文が本件原著の紹介目的で執筆されたもの であることを意味するということすら認めることができない。  また、被告Bは、翻訳行為自体は、著作物の内面形式を維持しながら、その外面形式を 変更するものであるから、同一性保持権侵害の問題になるものではない、とも主張する。 しかし、著作者の承諾を得て行う翻訳については、客観的に見て許容し得ない範囲の誤訳 を除いて、このようなことがいえるとしても、本件のように著作者の承諾を得ない翻訳に ついては、英語の表現形式を日本語に変更するものであるから、同一性保持権の侵害にも なるというべきである。  被告Bの主張はいずれも採用することができない。 (2)争点2−2(氏名表示権侵害の成否)について ア 被告Bは、本件原著の二次的著作物である本件論文を公表する際、本件原著の共同著 作者である原告に無断で、被告Bのみを本件論文の著作者であると表示したにすぎず、本 件原著の共同著作者として原告の氏名を表示しなかったのであるから、原告の氏名表示権 が侵害されたものと認められる。 イ 被告Bは、本件論文に本件記載があることをもって、本件原著が原告及び被告Bの共 同著作物である旨について明示しており、氏名表示権を侵害するものではないと主張する。 しかし、先に述べたとおり、本件記載は、本件原著が本件論文の参考文献の一つであるこ と、本件論文が本件原著に「基づいている」こと、証明等について本件原著を参照してほ しい旨を示すものにすぎず、本件原著の共同著作者が原告であることを意味する記載であ るということは到底できない。 3 争点3(侵害の停止及び予防請求並びに名誉回復等の措置の要否)について (1)被告らに対する本件論文及び本件書籍の発行等の差止め請求について  被告Bは、原告の明示の承諾がない限り、今後、本件論文を複製し、再版等することは しないと主張する。同様に、被告東洋経済は、本件書籍を今後発行する予定はなく、平成 18年12月16日までに在庫は廃棄し、今後も返品分は廃棄処分とする予定であると主 張する。確かに、証拠(乙8、15、16)によれば、被告東洋経済は、本件書籍を18 00部発行したものの、平成18年10月2日にその在庫941部を断裁処分し、同年1 2月16日には、その後返本されて戻ってきた在庫66部を断裁処分し、合計1007部 を既に断裁処分していることが認められるものの、一般に市販されたか流通在庫として残 っている本件書籍が合計493部存在していることからすると、今後も被告東洋経済に対 し本件流通分の返本が継続的になされることが予想される。しかし、被告らが本件訴訟に おいて本件原著の著作権侵害及び著作者人格権侵害を明確に争っていることを考慮すると、 将来、被告Bが、本件論文を発行、贈与、頒布等したり、被告東洋経済が、その方針を変 更し、本件書籍を発行、販売、贈与、頒布するおそれがあることを完全に否定し、本件論 文及び本件書籍についての発行、販売、贈与、頒布行為の差止請求を棄却することは相当 ではない。 (2)被告東洋経済に対する本件書籍の回収及び廃棄請求について  証拠(乙9ないし14)及び弁論の全趣旨によると、被告東洋経済は、本件書籍を、従 来からの取引慣行に基づいて、返品条件付売買である委託方式又は単純な売買である買切 方式により書籍の取次ぎ・小売店に販売したことが認められる。また、本件贈呈分につい ては、贈与により、本件書籍の所有権が受贈者に移転したことは明らかである。したがっ て、被告東洋経済は、本件流通分及び本件贈呈分の所有権を有しておらず、かつ、これら 各書籍の所有者に対し、返還を求める法的権利を有していないものというべきであるから、 被告東洋経済に対し、本件書籍の回収と回収分の廃棄を命ずることは相当ではない。また、 本件流通分及び本件贈呈分は、既に被告東洋経済から発行され、販売、贈与、頒布された ものであって、同被告による本件原著の著作権侵害行為は既に終了したものであるから、 本件流通分及び本件贈呈分について、侵害行為の停止又は予防に必要な措置を定める著作 権法112条2項に基づき、同被告にその回収を命ずることはできない。  原告は、本件論文が引用されるおそれが高いのであるから、これを予防するためには、 被告東洋経済により本件流通分及び本件贈呈分を全部回収して廃棄する必要があると主張 する。しかし、本件書籍が発行され、販売、贈与され、頒布されたことにより、本件原著 の著作権侵害行為が終了したものと評価することができるのであって、その後、本件論文 が引用されることは、新たな著作権侵害行為であるということはできないから、本件書籍 を回収することは、著作権法112条2項が定める著作権侵害の停止又は予防に必要な措 置ということはできない。したがって、原告の主張は採用することができない。  もっとも、被告東洋経済が今後も本件書籍の返本を受ける蓋然性は高いのであるから、 同社が占有するに至った本件書籍の在庫については、同社の所有のものとしてその廃棄を 認めることが相当である。 (3)本件広告及び本件通知について  原告は、著作権法112条2項に基づき、被告らに対し、本件書籍の回収のための本件 広告及び本件通知を求めている。しかし、上記のとおり、本件書籍が発行、販売、贈与、 ないし頒布されたことによって、本件流通分及び本件贈呈分については、被告らによる著 作権侵害行為は終了したものというべきであるから、第三者に譲渡された本件書籍を回収 するために、本件広告及び本件通知を命ずることは、被告らとの関係では、著作権法11 2条2項が定める侵害行為の停止又は予防に必要な措置ということはできない。  また、原告は、被告Bに対しては、同法112条2項のみならず同法115条に基づい て、著作権侵害についての謝罪及び本件書籍の回収のための本件広告及び同趣旨の本件通 知を求める。しかし、本件書籍は、合計1800部しか発行されておらず、そのうち10 07部は既に廃棄処分とされていることは、前記のとおりであり、さらに、証拠(乙16) 及び弁論の全趣旨によれば、早稲田大学が贈呈を受け所持している124部についても廃 棄予定であることが認められ、また、本件書籍が早稲田大学が文科省の支援を受けたCO Eプログラムの研究成果を掲載した書籍であること(乙16)からすれば、本件贈呈分の 残り176部の受贈者及び本件流通分493部のうち既に販売されたものの購入者は、学 者、研究者が多く、一般の人は多くはないことが推認され、これらからすれば、新聞の全 国版に謝罪広告をすることは、過大な請求であるといわざるを得ず、本件原著の著作者人 格権侵害について、原告の名誉を回復するために適当な措置と認めることはできない。  また、原告は、被告Bに対し、本件書籍の所有者に対し、本件書籍の回収に対する協力 を求める内容の本件広告及び本件通知を求めているものの、原告も被告Bも、本件書籍の 所有者に対し、このような作為を求める請求権を有していない以上、被告Bに対し、この ような行為をなすことを命じることも相当ではない。  さらに、原告は、被告Bに対し、著作者人格権侵害について原告の名誉を回復するため に本件広告を被告東洋経済のウェブページに掲載することを求めている。しかし、被告B が、被告東洋経済に対し、本件広告をそのウェブページに掲載することを求める請求権を 有しない以上、被告Bに対し、このような行為を命ずることは相当ではない。  また、本件通知については、原告が求める本件通知の送付先が、日本国内のすべての大 学等の各学長等及び附属図書館の各館長並びに国公立図書館の各館長であり、その通知先 について特定を欠くのみならず、本件書籍の発行部数1800部のうち、現在において、 流通に置かれていたり、個人や大学、図書館等が所有している可能性がある部数は、本件 贈呈分176部を合わせても最大で669部にすぎないこと(乙16)を合わせ考慮する と、著作権法115条に基づいて、被告Bに対し、本件通知を命ずることも、原告の名誉 を回復するために適当な措置としては過大であり、これを認めることはできない。 4 争点4(原告の損害)について  本件における原告の請求の内容、事案の性質、訴訟に至った経緯、難易度、審理経過な ど、一切の事情を総合考慮すれば、被告Bによる著作権侵害行為及び著作者人格権侵害行 為と相当因果関係があるものとして被告Bに負担させるべき弁護士費用としては、50万 円をもって相当と認める。  原告は、被告らに対し、連帯して、弁護士費用相当損害として、50万円の支払を求め ている。しかし、被告東洋経済が、本件論文を本件書籍に掲載して発行等したことについ て、被告東洋経済に過失が認められないことは、当事者間に争いがない。原告は、著作権 侵害等についての通知後に、被告東洋経済が更に本件書籍を販売した行為があれば、その 行為を、また、原告が被告東洋経済との交渉において求めた対応措置を被告東洋経済が行 わなかった不作為を、被告東洋経済の不法行為と主張するものである。しかし、被告東洋 経済が、原告から通知を受けた後、本件書籍の頒布等を行ったことを認めるに足りる証拠 はない。また、被告東洋経済は、原告からの要求を受け、本件書籍の出荷を直ちに停止し、 その在庫の断裁処分を決定している(乙1、2)。さらに、原告が要求した本件書籍の回 収等の要求に応じなかったこと(乙5)は、本件流通分及び本件贈呈分については被告東 洋経済がその所有権を有しないこと、及び、著作権法上、原告にも、本件流通分及び本件 贈呈分について、その回収を求める権利までないことを考慮すれば、直ちに不法行為であ ると評価されることはないことは明らかである。したがって、被告東洋経済が、原告との 交渉過程において、原告の求める措置を履行しなかったことが、原告に対する関係で不誠 実であって、不法行為に当たると評価することはできない。  よって、原告の被告東洋経済に対する不法行為に基づく請求は、理由がない。 第5 結論  以上によれば、原告の被告らに対する請求は、被告Bに対する本件論文の発行等の差止 め、被告東洋経済に対する本件書籍の発行等の差止め及び同書籍の在庫の廃棄並びに被告 Bに対する損害金50万円の支払を求める限度において理由があり、その余の請求は、い ずれも理由がないから、これを棄却する。  よって、主文のとおり、判決する。 東京地方裁判所民事第46部 裁判長裁判官 設樂 隆一    裁判官 間  史恵    裁判官 荒井 章光