回 想 上野達弘
「どうして研究者になったのですか?」
「大学時代はどういう学生でしたか?」
こういうことは学生さんからもよく聞かれる。とりわけ進路に悩む3、4年生に多い。
しかし、これらの質問に対して自信を持って答えられるものをわたしは持っていない。
学生時代、はやくから研究者を目指して勉学に励んでいる友人は、わたしの周りにもいた。それにひきかえわたしは研究者の道など考えたこともなかった。それどころか、まじめに(というか普通に)講義に出ているわけでもなかった。かといって、ほかに何か明確な将来の夢があるわけでも、希望があるわけでもなかった。要するにモラトリアム人間を地で行く、そんな学生だったのである。
そのまま時間は過ぎた。4年間は長いようで短い。あのままだったらどうなっていただろう……今となっては想像することも難しい。
当時わたしは、辻正美先生の民法ゼミに入っていた。正規ゼミ生はわたしをふくめて4名という非常に小規模なゼミだった。しかし、そのような環境でさえ、わたしはゼミの中でさしたる存在感を発揮できていなかった。
そんなわたしが学問を目指すことになるとは、誰も予想しなかった。誰も想像しなかった。本人だってそうである。
ある初夏の日。ゼミで裁判所見学に行った。京都地方裁判所での傍聴を終えたわれわれは、御所の脇にある喫茶店で先生とともにお茶をした(ちなみに、ここで辻先生は「3色アイス」なるかわいいメニューを注文された)。その場でどういうわけか大学院の話題になったのである。「誰か大学院こぉへんかなぁ。」というようなことを先生がおっしゃったのがきっかけだったかも知れない。しばらく話が続いたあと、誰かが(おそらく軽い気持ちで)「上野、行けやぁ」みたいなことを言ったのである。
当時のわたしは、すでに4回生(関西ではこういう)でありながら一向にはっきりとした方向性が見つからない状況を、さすがに案じていた。そのため、大学院の話が気になっていたことはたしかである。しかし、そんなことは到底口に出せなかった。それは動機が不十分であるという以上に、わたしが大学院に行くなんておかしいと思われるだろうと考えていたからである。わたしは、(もしかすると内心の真意には反していたのかも知れないが)、「いやいや大学院なんてわたしにはとても…」とか、秋の入試まで2ヶ月ほどしかなかったことから、「もう間に合いませんよ」などとお茶を濁そうとした。
すると、辻先生は3色アイスを食されながら(かどうかは記憶の限りでないが)言われた。
「いやぁ、人間ほんまに集中できんの、2ヶ月くらいやでぇ。」
この答えはわたしにとって意外なものだった。それは、人間の集中力がどれくらい持続するかという問題ではない。先生の言葉によって、このわたしが大学院にいく可能性が否定されなかったような気がしたからにほかならない。たったそれだけのことだ。しかし、それだけでも何となく誇らしい気分になったのである。つまり、その気になってしまったのである。
もしかすると、「その気になる」ことは人間にとって重要なことかも知れない。もしあのとき、先生に怪訝な顔をされたら…。わたしは二度と、大学院に行きたいなどと口にできなかっただろう。
こうしてわたしは大学院を受けてみることになった。安易なものである。しかし、目標ができると断然頑張るという性格も、わたしは持ち合わせていた。その結果、何とか大学院に進学することができたのである。しかし、合格発表後、「まあゆっくり羽のばしやぁ」という辻先生の甘い言葉を真に受けてしまったわたしは、その日から再びすっかり弛緩してしまっていた。
そのまま新学期の春を迎えたわたしに、辻先生は言われた。ちょうど最初の演習(スクーリング)に向かう途中の廊下を歩きながらのことだった。
「君、どうすんねん」
「いや実は特に…」
「せやったら、司法試験とかせんとな、研究者なりぃ」
「はあ。わたしもそれがよいのではないかと…」
実は、そのころのわたしは特に司法試験の勉強をしていたわけでもなかったし、研究者になりたいと自発的に考えていたわけでもなかった。それどころか、研究者なるものがどういうものかについてもろくに知らなかったのである。したがって、先生への返答はいわば知ったかぶりだった。しかし、何か自分なりの目標が与えられた気がして、とにかく何かエネルギーがわいてきたのである。
その後、さらなる強運に恵まれて博士後期課程までやって来たわたしは、いつしか研究生活というものが自分にフィットしているような気がしはじめていた。しかし、当時のわたしは、研究者に必要なじっくり机に向かうという姿勢は持ち合わせていなかった。そもそも、研究者として就職するために必要なことなど、何も認識していなかったように思う。辻先生の優しさに甘えて、あいかわらず好きな趣味に時間を費やし、空いた時間に研究をする。極端に言えばそんな毎日であった。
そんなぬるま湯のような日々。あのままではだめだっただろう。しかし、それは突然終わった。
辻先生が亡くなったという連絡を受けたのは、ようやく暖かくなりはじめた春の朝のことだった。
状況はすっかり変わった。わたしは、当時教授になったばかりの山本敬三先生の門下生として面倒を見ていただけることになった。山本先生は、わたしの認識不足に呆れたせいか、またわたしが最初の弟子だったこともあってか非常に厳しくして下さった。ちょうどそのころ、北川善太郎先生が副所長をされていた国際高等研究所で特別研究員を兼ねることになり、けいはんな学研都市にできたばかりの所内に研究室と居室を与えられた。周辺には何もなく、車がないと生活できないような場所ではあるが、贅沢な施設内にひとり暮らしをはじめ、否応なく研究に没頭する環境を得たのである。
わたしは現在も、曜日や時刻に関係なく、研究室が生活のデフォルトになっている。その是非はともかくとして、このようなスタイルはこのころの環境で身に付いたものである。
さて、そろそろ紙面は尽きてきた。この4年後、わたしは成城大学に赴任し、その3年後にあたる2004年、立教大学に移籍することになる。その間さまざまなことがあり、斉藤博先生や中山信弘先生など、あわせて恩師と呼ぶべきいろいろな先生のご厚情を受けたが、それを記す余裕はここにはない。
しかしとにかく、わたしはとりあえず研究者への道を歩みはじめることができた。今となっては、これがわたしにとっての天職だと確信している。もちろん、今のわたしは先生方のイメージする研究者像にはほど遠い状態にある。しかし、これまでのわたしの人生の中で、「その気にさせてくれる」先生がいて、「厳しくしてくれる」先生がいた。だからこそ、とりあえず今があるのだ。とても感謝している。
そして、こうした経験は、わたしの教育者としての考え方の一つにもなっている。しかし、研究者人生が緒に就いたばかりのわたしは、何よりもわが身を確立しなければならない。だから、わたしは今でも、どこか遠くで先生方にその気にさせられつつ厳しくされている、そのように考えたいと思っているのである。
(法学周辺33号67頁〔2005年〕所収)